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2008年05月06日 (火)
ヨハネの福音書 3:16-21
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」(16)
世は神様を愛しませんでした。神様を知っていましたが、神様をあがめもせず、感謝もしませんでした。神様を裏切り、神様に反逆しました。神様に敵対しました。このような世は当然滅ぼされるべきでした。私たちもこのような世の中で、罪の中を行き、滅ぼされる者たちでした。しかし神様はこのような世を愛されました。それも、そのひとり子をお与えになったほどに愛されました。世が受けるべきすべての裁きを、御子が代わりに受けるようにされました。そして今は誰でも彼を信じる者は滅びることなく、永遠のいのちを受けるようにされました。神様はこのように私たちを愛してくださいました。私たちはこの神様の驚くべき愛によって、永遠のいのちを受けるようになりました。世の人々に、この大きな愛を証しする生へと導かれたのです。
神様が、ご自分の御子を世にお遣わしになったのは、世の中をさばくためではなく、救おうとされるからです。それで誰でもひとり子をお与えになった神様の愛を悟り、イエス様を信じる人はさばかれることがありません。しかし信じない人はすでにさばかれています。それは彼らが自分の行ないが悪いので、光よりもやみを愛したからです。人々は、「理解できないので信じることができない」と言うかも知れません。しかし、知識が問題なのではなく、罪こそが問題なのです。罪を愛するために、信じることができないのです。罪を愛する心から立ち返り、神様の愛を受け入れるならば、永遠のいのちを得るのです。
祈り:主よ!ひとり子をお与えくださった、あなたの大いなる愛を思うとき、私は胸の詰まる思いです。私が、あなたの愛を覚え、永遠のいのちに与るものでありますように。
一言:その大いなる愛
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」(16)
世は神様を愛しませんでした。神様を知っていましたが、神様をあがめもせず、感謝もしませんでした。神様を裏切り、神様に反逆しました。神様に敵対しました。このような世は当然滅ぼされるべきでした。私たちもこのような世の中で、罪の中を行き、滅ぼされる者たちでした。しかし神様はこのような世を愛されました。それも、そのひとり子をお与えになったほどに愛されました。世が受けるべきすべての裁きを、御子が代わりに受けるようにされました。そして今は誰でも彼を信じる者は滅びることなく、永遠のいのちを受けるようにされました。神様はこのように私たちを愛してくださいました。私たちはこの神様の驚くべき愛によって、永遠のいのちを受けるようになりました。世の人々に、この大きな愛を証しする生へと導かれたのです。
神様が、ご自分の御子を世にお遣わしになったのは、世の中をさばくためではなく、救おうとされるからです。それで誰でもひとり子をお与えになった神様の愛を悟り、イエス様を信じる人はさばかれることがありません。しかし信じない人はすでにさばかれています。それは彼らが自分の行ないが悪いので、光よりもやみを愛したからです。人々は、「理解できないので信じることができない」と言うかも知れません。しかし、知識が問題なのではなく、罪こそが問題なのです。罪を愛するために、信じることができないのです。罪を愛する心から立ち返り、神様の愛を受け入れるならば、永遠のいのちを得るのです。
祈り:主よ!ひとり子をお与えくださった、あなたの大いなる愛を思うとき、私は胸の詰まる思いです。私が、あなたの愛を覚え、永遠のいのちに与るものでありますように。
一言:その大いなる愛
2008年05月05日 (月)
ヨハネの福音書 3:1-15
「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3)
ニコデモは宗教的にはパリサイ人であり、社会的には指導者でした。またユダヤ人の先生でした。彼は名誉と富と権力を持っていました。ところがこのような彼が夜にイエス様に尋ねて来ました。イエス様は彼に言われました。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは他人がうらやむ幸福の条件を持っていました。しかし彼は幸福ではありませんでした。彼には神様の国がありませんでした。彼が幸福を得るためには新しく生まれなければなりませんでした。なぜなら人生の問題は条件の問題ではなく、罪の問題だからです。罪の中に生まれたからです。それで罪の本性から抜け出さない限り、いくら大きな名誉と権力と富を所有しても、幸福にはなれません。
ニコデモは、新しく生まれなければならない、というイエス様の御言葉を理解できませんでした。彼は母の胎内に入り再び出てくることだと思いました。人が新しく生まれることは水と御霊によって生まれることです。すなわち聖霊を通してのみ生まれ変わります。それは十字架高く上げられたイエス様を信じる時に可能です。これはイスラエルの民がさおに高く上げられた青銅の蛇を仰ぎ見たことによっていのちを得たのと同じことです。イエス様は神様ですが、私たちのために十字架につけられ、死なれました。誰でもイエス様を仰ぎ見るなら生まれ変わります。神様の御国の民として生きるようになります。永遠のいのちを得て、幸福を得ます。
祈り:主よ!私が、自分が置かれた条件ばかりに囚われず、ただ、あなたを仰ぎ見て、生まれ変わる者でありますように。
一言:人は新しく生まれなければならない
「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3)
ニコデモは宗教的にはパリサイ人であり、社会的には指導者でした。またユダヤ人の先生でした。彼は名誉と富と権力を持っていました。ところがこのような彼が夜にイエス様に尋ねて来ました。イエス様は彼に言われました。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは他人がうらやむ幸福の条件を持っていました。しかし彼は幸福ではありませんでした。彼には神様の国がありませんでした。彼が幸福を得るためには新しく生まれなければなりませんでした。なぜなら人生の問題は条件の問題ではなく、罪の問題だからです。罪の中に生まれたからです。それで罪の本性から抜け出さない限り、いくら大きな名誉と権力と富を所有しても、幸福にはなれません。
ニコデモは、新しく生まれなければならない、というイエス様の御言葉を理解できませんでした。彼は母の胎内に入り再び出てくることだと思いました。人が新しく生まれることは水と御霊によって生まれることです。すなわち聖霊を通してのみ生まれ変わります。それは十字架高く上げられたイエス様を信じる時に可能です。これはイスラエルの民がさおに高く上げられた青銅の蛇を仰ぎ見たことによっていのちを得たのと同じことです。イエス様は神様ですが、私たちのために十字架につけられ、死なれました。誰でもイエス様を仰ぎ見るなら生まれ変わります。神様の御国の民として生きるようになります。永遠のいのちを得て、幸福を得ます。
祈り:主よ!私が、自分が置かれた条件ばかりに囚われず、ただ、あなたを仰ぎ見て、生まれ変わる者でありますように。
一言:人は新しく生まれなければならない
2008年05月04日 (日)
ヨハネの福音書 2:13-25
「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」(19)
過越しの祭りに、エルサレムに上って来られたイエス様は主の宮に行かれました。主の宮は父なる神様の家であり、罪人が神様に出会うところです。また神様の御言葉を聞いて、罪の赦しを受けるところであり、万民が祈る家です。ところがイエス様がご覧になった主の宮の姿はまったく違っていました。いけにえとしてささげる家畜が売買される市場になり、献金するお金を両替する銀行になっていました。これをご覧になったイエス様は細なわでむちを作り、羊と牛を追い出されました。また両替人の台を倒されました。これは腐敗した主の宮をきよめたことです。イエス様は、世俗的な欲望に染まった主の宮に激しく怒られました。同時に、昔の主の宮の時代は過ぎ去り、新しい宮の時代が来たことを見せてくださいました。
イエス様の姿を見たユダヤ人たちは悔い改めることより、むしろ怒りました。彼らは資格を問い、しるしを求めました。イエス様は言われました。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」ユダヤ人たちはこの御言葉を全く理解できませんでした。これはイエス様が将来神殿になるご自分のからだのことを言われた御言葉です。ユダヤ人たちが誇るエルサレム神殿やそこで行なわれる形式的な祭司はみなこわされてしまいます。イエス様は人間の罪を負って、十字架で死なれ、三日目によみがえられることで、新しい神殿になりました。今私たちはイエス様を通して神様に出会うことができます。神様の御言葉も聞きます。また罪の赦しを受けます。いのちと自由と幸福を受けます。
祈り:主よ!私が本当の神殿である主イエス様を通して、父なる神様に御仕えし、いのちの恵みに与る者でありますように。私を御助けください。
一言:本当の神殿イエス様
「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」(19)
過越しの祭りに、エルサレムに上って来られたイエス様は主の宮に行かれました。主の宮は父なる神様の家であり、罪人が神様に出会うところです。また神様の御言葉を聞いて、罪の赦しを受けるところであり、万民が祈る家です。ところがイエス様がご覧になった主の宮の姿はまったく違っていました。いけにえとしてささげる家畜が売買される市場になり、献金するお金を両替する銀行になっていました。これをご覧になったイエス様は細なわでむちを作り、羊と牛を追い出されました。また両替人の台を倒されました。これは腐敗した主の宮をきよめたことです。イエス様は、世俗的な欲望に染まった主の宮に激しく怒られました。同時に、昔の主の宮の時代は過ぎ去り、新しい宮の時代が来たことを見せてくださいました。
イエス様の姿を見たユダヤ人たちは悔い改めることより、むしろ怒りました。彼らは資格を問い、しるしを求めました。イエス様は言われました。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」ユダヤ人たちはこの御言葉を全く理解できませんでした。これはイエス様が将来神殿になるご自分のからだのことを言われた御言葉です。ユダヤ人たちが誇るエルサレム神殿やそこで行なわれる形式的な祭司はみなこわされてしまいます。イエス様は人間の罪を負って、十字架で死なれ、三日目によみがえられることで、新しい神殿になりました。今私たちはイエス様を通して神様に出会うことができます。神様の御言葉も聞きます。また罪の赦しを受けます。いのちと自由と幸福を受けます。
祈り:主よ!私が本当の神殿である主イエス様を通して、父なる神様に御仕えし、いのちの恵みに与る者でありますように。私を御助けください。
一言:本当の神殿イエス様
2008年05月03日 (土)
ヨハネの福音書 2:1-12
「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、」(11)
イエス様と弟子たちがカナの婚礼に招かれました。ところが婚礼の席で、必ずなくてはならないぶどう酒がなくなりました。盛り上がった宴会の雰囲気がしらけ始めました。今日のようにすぐに用意できるわけではないので、これは深刻な問題でした。マリヤはこの事実をイエス様に知らせました。しかしイエス様は拒絶されました。イエス様の時がまだ来ていなかったからです。しかしマリヤは気を落とさずに、手伝いの人たちを準備させました。マリヤは主が働ける環境を備えて置いて、時を待ちました。時になると、イエス様は手伝いの人たちに言われました。「水がめに水を満たしなさい。」彼らはこの御言葉に聞き従いました。彼らは縁までいっぱいにすることで、積極的に従いました。イエス様は「その水をくんで、宴会の世話役のところに持って行く」ように言われました。手伝いの人たちはまたその通りに従いました。人々はぶどう酒になった水の芳醇な味に驚きました。イエス様は危機を感嘆に変えられました。大きな喜びをくださいました。ところがその働きの後ろには従順する人々がいました。主は従順する人々を用いられます。
これはイエス様が行なわれた最初のしるしです。イエス様は最初のしるしを通して、ご自分の栄光を現されました。「ご自分の栄光」とは「神様の栄光」のことです。神様であるイエス様はぶどう酒がなくなった人々に喜びをくださいます。イエス様はこの世で味わうことのできない喜びをくださる方です。それで誰でもこのイエス様を信じるなら、世の中では得ることのできない喜びと祝福を得ます。
祈り:主よ!私が、あなたを信じる信仰を通して、この世では得られない喜びと祝福に与る者となれますように。私を助け導いてください。
一言:大きな喜び、イエス様
「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、」(11)
イエス様と弟子たちがカナの婚礼に招かれました。ところが婚礼の席で、必ずなくてはならないぶどう酒がなくなりました。盛り上がった宴会の雰囲気がしらけ始めました。今日のようにすぐに用意できるわけではないので、これは深刻な問題でした。マリヤはこの事実をイエス様に知らせました。しかしイエス様は拒絶されました。イエス様の時がまだ来ていなかったからです。しかしマリヤは気を落とさずに、手伝いの人たちを準備させました。マリヤは主が働ける環境を備えて置いて、時を待ちました。時になると、イエス様は手伝いの人たちに言われました。「水がめに水を満たしなさい。」彼らはこの御言葉に聞き従いました。彼らは縁までいっぱいにすることで、積極的に従いました。イエス様は「その水をくんで、宴会の世話役のところに持って行く」ように言われました。手伝いの人たちはまたその通りに従いました。人々はぶどう酒になった水の芳醇な味に驚きました。イエス様は危機を感嘆に変えられました。大きな喜びをくださいました。ところがその働きの後ろには従順する人々がいました。主は従順する人々を用いられます。
これはイエス様が行なわれた最初のしるしです。イエス様は最初のしるしを通して、ご自分の栄光を現されました。「ご自分の栄光」とは「神様の栄光」のことです。神様であるイエス様はぶどう酒がなくなった人々に喜びをくださいます。イエス様はこの世で味わうことのできない喜びをくださる方です。それで誰でもこのイエス様を信じるなら、世の中では得ることのできない喜びと祝福を得ます。
祈り:主よ!私が、あなたを信じる信仰を通して、この世では得られない喜びと祝福に与る者となれますように。私を助け導いてください。
一言:大きな喜び、イエス様
2008年05月02日 (金)
ヨハネの福音書 1:35-51
「イエスは彼らに言われた。『来なさい。そうすればわかります。』」(39)
バプテスマのヨハネは、自分の二人の弟子にもイエス様を証ししました。その証しを聞いた二人の弟子がイエス様を尋ねて行きました。彼らは証しを聞いただけでは満足せずに、もっとイエス様を知ろうとしました。イエス様は彼らを「来なさい。」と招かれました。この御言葉は、来て直接体験してみなさい、と言う意味です。イエス様は、彼らに直接来て、主の御言葉を聞いて、体験してみなさい、と言われました。人格的な交わりをしようと招かれました。イエス様の招きを受けた二人の弟子はその日一緒に過ごしました。そしてアンデレはイエス様をメシヤとして出会いました。メシヤは私たちを罪から救い、いのちをくださるキリストです。彼はイエス様と共にいることで、驚くべき祝福を受けました。誰でもイエス様と人格的な交わりをする時、メシヤに出会い、永遠のいのちを受けます。
更に進んで、イエス様を証しする生活をするようになります。イエス様をメシヤとして出会ったアンデレはシモンをイエス様のところに連れて来ました。イエス様は彼に「あなたをケパと呼ぶことにします。」と言われました。「ケパ」は「岩」という意味です。イエス様は彼に救いの御業において岩になる望みを置かれました。次の日にイエス様はピリポに出会い、「わたしに従って来なさい。」と言われました。彼もイエス様に出会った後、友だちのナタナエルをイエス様のところに導きました。ナタナエルはイエス様と人格的な関係性を結んだ後、イスラエルの王であると告白しました。「イスラエルの王」も「メシヤ」を指します。誰でもイエス様に出会って交わるなら、メシヤとして告白し、証しするようになります。
祈り:主よ!私は、どこまでも、あなたについて行きます。あなたを深く体験し、証しする者となるに至るまで、私を導いてください。
一言:来なさい
「イエスは彼らに言われた。『来なさい。そうすればわかります。』」(39)
バプテスマのヨハネは、自分の二人の弟子にもイエス様を証ししました。その証しを聞いた二人の弟子がイエス様を尋ねて行きました。彼らは証しを聞いただけでは満足せずに、もっとイエス様を知ろうとしました。イエス様は彼らを「来なさい。」と招かれました。この御言葉は、来て直接体験してみなさい、と言う意味です。イエス様は、彼らに直接来て、主の御言葉を聞いて、体験してみなさい、と言われました。人格的な交わりをしようと招かれました。イエス様の招きを受けた二人の弟子はその日一緒に過ごしました。そしてアンデレはイエス様をメシヤとして出会いました。メシヤは私たちを罪から救い、いのちをくださるキリストです。彼はイエス様と共にいることで、驚くべき祝福を受けました。誰でもイエス様と人格的な交わりをする時、メシヤに出会い、永遠のいのちを受けます。
更に進んで、イエス様を証しする生活をするようになります。イエス様をメシヤとして出会ったアンデレはシモンをイエス様のところに連れて来ました。イエス様は彼に「あなたをケパと呼ぶことにします。」と言われました。「ケパ」は「岩」という意味です。イエス様は彼に救いの御業において岩になる望みを置かれました。次の日にイエス様はピリポに出会い、「わたしに従って来なさい。」と言われました。彼もイエス様に出会った後、友だちのナタナエルをイエス様のところに導きました。ナタナエルはイエス様と人格的な関係性を結んだ後、イスラエルの王であると告白しました。「イスラエルの王」も「メシヤ」を指します。誰でもイエス様に出会って交わるなら、メシヤとして告白し、証しするようになります。
祈り:主よ!私は、どこまでも、あなたについて行きます。あなたを深く体験し、証しする者となるに至るまで、私を導いてください。
一言:来なさい