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2007年12月21日 (金)
ユダ 1:8-16
「夢見る者であり、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ」(8)
ユダはにせ教師たちを指して「夢見る者」と言っています。なぜでしょうか。聖徒たちは救いを受けた後、罪の誘惑と戦い、霊的な成長をしていかなければなりません。救いの恵みを悪用して放縦と肉体の自由を求めるなら、必ず滅びてしまいます。これは明らかなことであり、真理です。ところがこの人々(にせ教師たち)は、救いを受けたのなら気ままに生きてもいい、と言って、現実から離れ、夢の中で生きる者たちです。彼らは肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、神様の栄光をそしっています。彼らは理性のない獣のように本能のまま生き、滅びる者たちです。
彼らは兄弟を殺害したカイン、お金を愛した預言者バラム、霊的な秩序に敵対したコラのようです。教会の中に入って行き、愛餐に預かりましたが、やぎのような存在です。自由主義思想は華麗に見え、何か与えるかのように見えます。しかし彼らの正体は水のない雲であり、実を結ばない秋の木です。彼らは私たちに何もくれません。彼らにあるものは恥のあわとまっ黒なやみだけです。私たちは、霊的な闘争なしに自由に生きる偽りの信仰の正体を、正しく知らなければなりません。イエス様を信じた後、信仰の道理のために熱心に闘争する時、霊的に成長します。このような人は人に与える霊的な実が多くあります。しかし霊的な戦いを嫌い、罪の願うまま生きるなら、結局は羞恥と虚無しかありません。私たちは夢の中で生きてはいけません。現実を直視し、霊的に成長しようと熱心でなければなりません。
祈り:主よ!自由と放縦に何の実もありません。私が夢の中で生きずに、目を覚まして実を結ぶ者になるように助けてください。
一言:夢から覚醒するように
「夢見る者であり、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ」(8)
ユダはにせ教師たちを指して「夢見る者」と言っています。なぜでしょうか。聖徒たちは救いを受けた後、罪の誘惑と戦い、霊的な成長をしていかなければなりません。救いの恵みを悪用して放縦と肉体の自由を求めるなら、必ず滅びてしまいます。これは明らかなことであり、真理です。ところがこの人々(にせ教師たち)は、救いを受けたのなら気ままに生きてもいい、と言って、現実から離れ、夢の中で生きる者たちです。彼らは肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、神様の栄光をそしっています。彼らは理性のない獣のように本能のまま生き、滅びる者たちです。
彼らは兄弟を殺害したカイン、お金を愛した預言者バラム、霊的な秩序に敵対したコラのようです。教会の中に入って行き、愛餐に預かりましたが、やぎのような存在です。自由主義思想は華麗に見え、何か与えるかのように見えます。しかし彼らの正体は水のない雲であり、実を結ばない秋の木です。彼らは私たちに何もくれません。彼らにあるものは恥のあわとまっ黒なやみだけです。私たちは、霊的な闘争なしに自由に生きる偽りの信仰の正体を、正しく知らなければなりません。イエス様を信じた後、信仰の道理のために熱心に闘争する時、霊的に成長します。このような人は人に与える霊的な実が多くあります。しかし霊的な戦いを嫌い、罪の願うまま生きるなら、結局は羞恥と虚無しかありません。私たちは夢の中で生きてはいけません。現実を直視し、霊的に成長しようと熱心でなければなりません。
祈り:主よ!自由と放縦に何の実もありません。私が夢の中で生きずに、目を覚まして実を結ぶ者になるように助けてください。
一言:夢から覚醒するように
2007年12月20日 (木)
ユダ 1:1-7
「聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。」(1)
ユダの手紙は、イエス様の弟ユダが書いた手紙です。彼は、聖徒たちが得た救いについて、教えることを願いました。その内容は、彼らに、ひとたび伝えられた信仰のために戦うように、教えるものでした。「ひとたび伝えられた信仰」とは、イエス様を信じることで全ての罪から救いを得た福音信仰です。ところがなぜそのために戦わなければならないのでしょうか。当時教会の中にひそかに忍び込んだにせ教師たちのためです。彼らは、一度救いを受ければ、全ての罪が赦されたので、その後には自由気ままに生きてもいい、と教えました。彼らは肉体の自由と快楽を追求しました。神様の恵みを悪用し、放縦に変えました。彼らは、唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。聖徒たちは信仰によって得た救いを安っぽく考えてはいけません。信仰を汚す偽りの教えと戦い、福音信仰を守らなければなりません。
ユダは歴史の教訓を通して、神様の恵みを軽んじた人々の最後を思い起こさせました。イスラエルがエジプトで救いを受けても、後に信じない人々は滅びます。たとえ天の御使いであっても、神様の恵みを忘れ傲慢になった時、神様のさばきを受けました。ソドムとゴモラの最後は、人間が堕落した性的快楽を追及した時、結局どうなるのかを教えてくれます。このような歴史は今を照らし出す鏡です。救われた聖徒が主の恵みを無視し、罪の願う通りに生きるなら、必ず滅びます。私たちは歴史の教訓を鏡とし、私の中にある罪の願いと戦わなければなりません。
祈り:主よ!私が、神様の恵みを放縦に変える悪い教えと戦い、信仰を守るように助けてください。
一言:福音信仰のために戦おう
「聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。」(1)
ユダの手紙は、イエス様の弟ユダが書いた手紙です。彼は、聖徒たちが得た救いについて、教えることを願いました。その内容は、彼らに、ひとたび伝えられた信仰のために戦うように、教えるものでした。「ひとたび伝えられた信仰」とは、イエス様を信じることで全ての罪から救いを得た福音信仰です。ところがなぜそのために戦わなければならないのでしょうか。当時教会の中にひそかに忍び込んだにせ教師たちのためです。彼らは、一度救いを受ければ、全ての罪が赦されたので、その後には自由気ままに生きてもいい、と教えました。彼らは肉体の自由と快楽を追求しました。神様の恵みを悪用し、放縦に変えました。彼らは、唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。聖徒たちは信仰によって得た救いを安っぽく考えてはいけません。信仰を汚す偽りの教えと戦い、福音信仰を守らなければなりません。
ユダは歴史の教訓を通して、神様の恵みを軽んじた人々の最後を思い起こさせました。イスラエルがエジプトで救いを受けても、後に信じない人々は滅びます。たとえ天の御使いであっても、神様の恵みを忘れ傲慢になった時、神様のさばきを受けました。ソドムとゴモラの最後は、人間が堕落した性的快楽を追及した時、結局どうなるのかを教えてくれます。このような歴史は今を照らし出す鏡です。救われた聖徒が主の恵みを無視し、罪の願う通りに生きるなら、必ず滅びます。私たちは歴史の教訓を鏡とし、私の中にある罪の願いと戦わなければなりません。
祈り:主よ!私が、神様の恵みを放縦に変える悪い教えと戦い、信仰を守るように助けてください。
一言:福音信仰のために戦おう
2007年12月19日 (水)
詩篇 73:1-28
「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」(28)
神様はイスラエルを善で接しておられます。心のきよい人たちはなおさらそうです。しかし詩人はこの事実を信じることができませんでした。信仰をすべて失ってしまいました。なぜなら悪い人がよく生活していることを見たからです。そのような傲慢な人々をねたんだからです。彼らは心に葛藤もなく、からだは健康でした。彼らには私たちが受ける苦難もありません。不幸なことが起こりません。彼らは高慢を首飾りとし、暴虐の着物を着ていました。彼らはその口を天にすえ、その舌は地を行き巡らせました。高い所からしいたげを告げました。彼らはいつまでも平安に生き、財産は次第に増えて行きました。反面、詩人は心をきよくしようと苦労しました。罪を犯さないようにと闘争しました。一日中苦痛を味わいました。このような対照的な生活を理解しようとしましたが、労苦に終わりました。
しかし聖所にはいって、初めて彼らにどんなことが起こるのか、悟るようになりました。主は彼らをすべりやすい所に置かれます。滅ぼされます。瞬く間に彼らはみな死んで消えてしまいます。反面、正しい人は主が右手でしっかりつかまえてくださいます。主の教えで導いてくださいます。栄光のうちに受け入れてくださいます。天では主のほかに誰がいるでしょうか。地上では主のほかに望むものはありません。主を遠ざける人は滅びます。しかし主の近くにいる者は祝福を受けます。神なる主は避け所です。
祈り:主よ!私が悪者の今の姿を見て落胆せずに、むしろ主に近づいて行くことで、祝福を得るように助けてください。
一言:神の近くにいることが
「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」(28)
神様はイスラエルを善で接しておられます。心のきよい人たちはなおさらそうです。しかし詩人はこの事実を信じることができませんでした。信仰をすべて失ってしまいました。なぜなら悪い人がよく生活していることを見たからです。そのような傲慢な人々をねたんだからです。彼らは心に葛藤もなく、からだは健康でした。彼らには私たちが受ける苦難もありません。不幸なことが起こりません。彼らは高慢を首飾りとし、暴虐の着物を着ていました。彼らはその口を天にすえ、その舌は地を行き巡らせました。高い所からしいたげを告げました。彼らはいつまでも平安に生き、財産は次第に増えて行きました。反面、詩人は心をきよくしようと苦労しました。罪を犯さないようにと闘争しました。一日中苦痛を味わいました。このような対照的な生活を理解しようとしましたが、労苦に終わりました。
しかし聖所にはいって、初めて彼らにどんなことが起こるのか、悟るようになりました。主は彼らをすべりやすい所に置かれます。滅ぼされます。瞬く間に彼らはみな死んで消えてしまいます。反面、正しい人は主が右手でしっかりつかまえてくださいます。主の教えで導いてくださいます。栄光のうちに受け入れてくださいます。天では主のほかに誰がいるでしょうか。地上では主のほかに望むものはありません。主を遠ざける人は滅びます。しかし主の近くにいる者は祝福を受けます。神なる主は避け所です。
祈り:主よ!私が悪者の今の姿を見て落胆せずに、むしろ主に近づいて行くことで、祝福を得るように助けてください。
一言:神の近くにいることが
2007年12月18日 (火)
ハガイ 2:10-23
「きょうから後、わたしは祝福しよう。」(19)
ある人が主にささげようと、聖なる肉を自分の着物のすそで運んで来ました。ところがそのすそがパンやほかの食物に触れたなら、それは聖なるものとなるでしょうか。そうではありません。死体によって汚れた人が、これらのどれにでも触れたなら、それは汚れるでしょうか。汚れます。今イスラエルの民たちはこのようなことをやっています。彼らは汚れ、彼らが手で作ったものも汚れます。彼らは主の宮を建てる前に、どんなことをしたのでしょうか。二十の麦束の積んである所に行っても、ただ十束しかありませんでした。なぜなら主が彼らを立ち枯れと黒穂病で打たれたからです。なぜこのようにされたのでしょうか。彼らが主に立ち帰ることを願われたからです。しかし彼らは帰っては来ませんでした。しかし今彼らは主の宮に基礎を築くことを終えました。彼らの穀物倉には種がありません。ざくろやオリーブはまだ実を結びませんでした。しかし今日から主が彼らを祝福してくださいます。なぜなら彼らはきよくなったからです。
主は、汚れた者たちには祝福してくださいません。聖なる者に祝福してくださいます。主から祝福されるためには、金の器か銀の器かが問題ではありません。その中がきよい器が祝福されます。それで私たちが主の十字架の恵みを受け入れ、日々きよくなって行くことを願われます。そうすれば今日から祝福してくださいます。
祈り:主よ!私が今日から自分をきよめ、今日から主の祝福を受ける者になるように助けてください。
一言:今日から
「きょうから後、わたしは祝福しよう。」(19)
ある人が主にささげようと、聖なる肉を自分の着物のすそで運んで来ました。ところがそのすそがパンやほかの食物に触れたなら、それは聖なるものとなるでしょうか。そうではありません。死体によって汚れた人が、これらのどれにでも触れたなら、それは汚れるでしょうか。汚れます。今イスラエルの民たちはこのようなことをやっています。彼らは汚れ、彼らが手で作ったものも汚れます。彼らは主の宮を建てる前に、どんなことをしたのでしょうか。二十の麦束の積んである所に行っても、ただ十束しかありませんでした。なぜなら主が彼らを立ち枯れと黒穂病で打たれたからです。なぜこのようにされたのでしょうか。彼らが主に立ち帰ることを願われたからです。しかし彼らは帰っては来ませんでした。しかし今彼らは主の宮に基礎を築くことを終えました。彼らの穀物倉には種がありません。ざくろやオリーブはまだ実を結びませんでした。しかし今日から主が彼らを祝福してくださいます。なぜなら彼らはきよくなったからです。
主は、汚れた者たちには祝福してくださいません。聖なる者に祝福してくださいます。主から祝福されるためには、金の器か銀の器かが問題ではありません。その中がきよい器が祝福されます。それで私たちが主の十字架の恵みを受け入れ、日々きよくなって行くことを願われます。そうすれば今日から祝福してくださいます。
祈り:主よ!私が今日から自分をきよめ、今日から主の祝福を受ける者になるように助けてください。
一言:今日から
2007年12月17日 (月)
ハガイ 2:1-9
「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。」(9)
イスラエルの民の中には、以前の栄光を覚える人々がいました。彼らが今主の宮を見ると、まるで無に等しいものでした。宮の建築に力が入りませんでした。そのような彼らに神様は力をくださいます。望みをくださいます。神様が彼らとともにおられます。エジプトから救われたとき共におられたように、今も共にいてくださいます。イスラエルを救われたその神様が、今主の宮の中におられます。神様がこの宮を栄光で満たしてくださいます。それでこの宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさります。神様はここで平和をくださいます。
私たちにとって、宮の再建は何でしょうか。今日の宮は建物ではありません。イエス様を信じる一人一人が宮です。それで一人にイエス様を伝え、イエス様を信じる信仰へと導くことが宮の再建です。個人的な関わりを通して、霊的な復興を呼び起こす生き方です。世の華やかさに比べて、力無く思えるかも知れません。あるいは巨大な礼拝堂を建てることに比べれば、取るに足りないことのように思えます。それで軽んじてしまいやすいのです。放棄してしまいたい時もあるでしょう。しかし主は私たちに言われます。「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。」。宮の再建の御業、すなわち、私たちが隣人に御言葉を伝える、その場には、主が共にいてくださいます。主御自身が、その場を栄光で満たされるのです。これこそ、どんな華麗な礼拝堂よりもさらにまさるものです。このことを通して、私たち全てに平和がもたらされるのです。
祈り:主よ!私がすることが小さく、見栄えがしない時、落胆せずに、さらに大きな栄光を見る目をください。
一言:みすぼらしく思えても、さらにまさる栄光
「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。」(9)
イスラエルの民の中には、以前の栄光を覚える人々がいました。彼らが今主の宮を見ると、まるで無に等しいものでした。宮の建築に力が入りませんでした。そのような彼らに神様は力をくださいます。望みをくださいます。神様が彼らとともにおられます。エジプトから救われたとき共におられたように、今も共にいてくださいます。イスラエルを救われたその神様が、今主の宮の中におられます。神様がこの宮を栄光で満たしてくださいます。それでこの宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさります。神様はここで平和をくださいます。
私たちにとって、宮の再建は何でしょうか。今日の宮は建物ではありません。イエス様を信じる一人一人が宮です。それで一人にイエス様を伝え、イエス様を信じる信仰へと導くことが宮の再建です。個人的な関わりを通して、霊的な復興を呼び起こす生き方です。世の華やかさに比べて、力無く思えるかも知れません。あるいは巨大な礼拝堂を建てることに比べれば、取るに足りないことのように思えます。それで軽んじてしまいやすいのです。放棄してしまいたい時もあるでしょう。しかし主は私たちに言われます。「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。」。宮の再建の御業、すなわち、私たちが隣人に御言葉を伝える、その場には、主が共にいてくださいます。主御自身が、その場を栄光で満たされるのです。これこそ、どんな華麗な礼拝堂よりもさらにまさるものです。このことを通して、私たち全てに平和がもたらされるのです。
祈り:主よ!私がすることが小さく、見栄えがしない時、落胆せずに、さらに大きな栄光を見る目をください。
一言:みすぼらしく思えても、さらにまさる栄光






