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律法は聖なるものである
ローマ 7:7-25

 「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」(12)

 律法は私たちにいのちを与えることができず、むしろ死の実を結ばせたからと言うことで(7:5)、私たちは律法無用論を主張しがちです。
 しかし律法自体は悪いのではありません。一つには、律法は罪を悟らせてくれます(7)。むさぼりは心の中にあるものなので、人々はそれを罪とは思いません。しかし神様は「むさぼってはならない」という律法をお与えになり、むさぼりが罪であることを教えてくださいました。この世は相対的で、義に対する絶対的基準を喪失しています。律法はこのような人々に義についての絶対的基準となり、何が義で、罪であるのかを教える役割を果たしているのです。
 二つ目に、律法は私たちは主イエス・キリストへと導きます(8-13)。パウロはむさぼりが罪であることを知った後、むさぼらないように努力しました。するとさらに多くのむさぼりが彼の中にあることがあきらかになります(8)。戒めがなかった時は、自分が生きて、罪が死んでいたのに、戒めが現われると自分が死に、罪が生きていました(9)。律法は罪を極度に罪深いものとしました(13b)。これはまるで私たちが御言葉に触れた初期の頃、御言葉を学ぶほどに自分が罪人であることを見出すようなものです。しかしそのようにして自分の行ないでは義とされないことが分かれば、ただ主の御前にへりくだり、信仰による義を求め受け入れるようになるのです(25)。
 ですから律法は人を罪人とし、イエス様に導くために必要です。それ故に、律法は聖なるもので、正しく、良いものです(12)。キリストによって新しい命に与った私たちは律法の教え、律法の精神に従って、教え導くべきなのです。

祈り:主よ!信仰によって、あなたは私を義としてくださいました。これから、私は、聖なる律法の教えに聞き従い、霊的に成長して行きたいです。私を助け導いてください。

一言:律法の教えによって
カテゴリ:新約聖書::ローマ人への手紙

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新しい御霊によって仕えているのです
ローマ 7:1-6

 「新しい御霊によって仕えているのです。」(6)

 イエス・キリストを信じることで、義と認められても、昔のように律法に従って生きている人がいます。このような人は依然信仰生活に喜びがなく、自発的ではなく、依存心が強く、弱く、神様に喜ばれる実も結べません。私たちクリスチャンはこれ以上律法的な生活をしてはいけません。それは私たちが律法に対して死んだからです。
 私たちは、前は律法氏と結婚し、律法氏の要求を満足させようとした女のようでした。その時、私たちは律法の要求に達することができず、非難されなければなりませんでした。
 律法氏に仕える生活は、私たちを疲れさせ、反発心を持たせ、死の実を結ばせました。ところがイエス様は私たちの代わりに十字架で死んでくださいました。それで私たちは律法の支配から抜け出すようになりました。イエス様のこのような聖なる犠牲は、私たちが恵みと愛の主イエス様のところに行き、神様のための聖なる実を結ばせる大切な基礎になります(4)。
 「しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」(6)。信仰によって生まれ変わった者は、今昔の律法の要求に従って生きてはいけません。その代わりに、その中に生きておられる御霊によってイエス・キリストを愛し、仕えるようになり、私たちの中に神様が喜ばれる本当の望みの実が次々と結ばれるようになります。

祈り:主よ!古い律法によって生きず、御霊によってイエス様を愛し、仕える生活をして、実を結ぶ者になります。

一言:新しい霊によって仕えているのです
カテゴリ:新約聖書::ローマ人への手紙

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その手足を義の奴隷としてささげなさい
ローマ 6:15-23

 「その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」(19)

I.罪の奴隷となって死に至り(15-16)
 今私たちは律法の下にではなく、恵みの下にいます。ところが私たちは恵みの下にいるのだから、自由に罪を犯して、恵みによって罪の赦しの恵みを受ければ良いのではないか、と考えやすいです。これは非常にあやまった考え方です。私たちが何に従うかによって、その奴隷になります。罪に自分の身をささげて服従すれば、罪の奴隷になります(16)。罪の奴隷になれば、自由を失って罪に引き渡され、恥ずかしい実を結ぶようになります。結局死に至るようになります。それで恵みの下にいても、罪に自分の身をささげることを恐れなければなりません。

II.その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。(17-23)
 以前、私たちは罪の奴隷でした。しかし福音を受け入れ、心から聞き従うことで罪から解放され、義の奴隷になりました(18)。義の奴隷になった私たちは、その手足を義の奴隷としてささげ、聖潔に進まなければなりません。私たちの手足を義にささげることは、私たちのからだを神様のしもべとしてささげることです。これは神様の栄光を現すことを人生の目的として、神様の御旨を成し遂げるために、自分の時間と財産と能力をささげることを、指します。このように神様の栄光のために自分をささげれば、私たちは本当の自由と幸福を味わい、霊的な成長をし、永遠のいのちに至る霊的な実を結ぶようになります。

祈り:主よ!私が恵みを乱用して罪を楽しんだことを悔い改めます。今、私を義の奴隷としてささげ、聖なる実を結びます。

一言:今日も私の手足を義の奴隷として
カテゴリ:新約聖書::ローマ人への手紙

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あなたがた自身を神様にささげなさい
ローマ 6:1-14

 「あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」(13)

 パウロは、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」と言いました(5:20)。これは律法が罪をさらに罪に定めることによって、キリストの恵みがさらに大きくなるという意味です。ある人はこの御言葉を基に、「私たちのうちにさらに大きな恵みが増し加わるために、罪をもっと犯したほうがいい」と冗談のように言ったりもします。しかし私たちクリスチャンはそうすることができません。
 それは私たちがキリストと共にバプテスマを受けたからです。バプテスマの霊的な意味はキリストとつながることです(3,4)。私たちクリスチャンはキリストの死にあずかり、罪を支配の受けた昔の人が死に、キリストの復活にあずかって新しいいのちでよみがえったのです。それで私たちはこれ以上自分を罪の奴隷として引き渡してはいけません。私たちは、私たち自身とその手足を義の器として神様にささげなければなりません(12,13)。
 私たちのからだは義の器のようです。誰が私たちを用いるかによってその結果は違って来ます。罪が私たちのからだを治めれば、私たちは不義の器になります。
 しかし私たち自身を神様にささげれば、義の器になって、神様の栄光を現し、いのちを生かすことに尊く用いられるようになります。私たちは一度死んで再びよみがえった者のように、私たち自身を神様にささげ、献身しなければなりません。その時、罪はその人を支配できなくなり、その人は美しいいのちの実を結ぶ義の器になります。

祈り:主よ!私はこの死ぬべきからだを罪にささげずに、私を生かしてくださった神様にささげます。私を義の器として尊く用いてください。

一言:私のからだは義の器
カテゴリ:新約聖書::ローマ人への手紙

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アダムとイエス・キリスト
ローマ 5:12-21

 「ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」(19)

 私たちがイエス様の十字架の恵みを信じることで救いを受けたと言う時、「一人の死が総べての人を救うことができるのか。」また、「二千年前の十字架の出来事が今日の私にも効果があるのか。」という疑問が投げかけられるかも知れません。パウロはこうした疑問に対して、アダムのたとえを上げて、具体的に説明しています。
 人類の祖として造られたアダム一人は神様に背き、そのことによって、罪がこの世に入り込み、罪によって死が来ました(12)。モーセの律法以前にも、罪はすでに存在し、人々は罪の下に置かれていたのです(13,14)。アダム一人の不従順が全人類に影響を及ぼしました。これはアダムが全人類を代表するものとして象徴されるからです。
 イエス・キリストの恵みについてもこれと同様です。イエス様は第二のアダムとして人類の新しい祖として来られたのです(14b)。このイエス様はアダムとは違い、神様に死ぬまで従われました。アダムの不従順が全人類に死をもたらせたように、イエス様の義の行ないは全人類に神様の賜物であるいのちが満ち溢れさせます。彼を信じる者は誰でも義と認められて、いのちを与えられるのです(18)。罪が死の世界で支配したように、神様の恵みはイエス様の中で支配し、永遠のいのちを得させます(21)。イエス・キリストの義の行ないは今日の私たちにまで神様の恵みを与えてくださるのです。

祈り:主よ!あなたの従順によって今日の私が救いを受けるようになりました。私も、あなたのような従順によって、いのちの御業に用いられる者としてください。

一言:主に在る一人の影響力
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