2006年04月14日 (金)
コリント人への手紙第一 15:29-34
「兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。」(31)
I.毎日が死の連続(29-31)
使徒パウロは復活の望みに生きていたために、多くの苦難や危険の中にあっても、福音を宣べ伝えることを決してあきらめませんでした。彼の人生は、「毎日が死の連続」という言葉で表されています。彼はキリストに従うために、日々自分を捨てました。自我の殻に閉じこもり、変化を避けて生きて行きたいと願う肉の望みと、世の栄光を求める欲望を捨て去ったのです。彼は、この世で認められ、富を得ることもできたにもかかわらず、その誘惑を退けました。それは、彼には復活の望みがあったからでした。そして、むしろ、主と福音の御業のために、日々ますます、その身を捧げたのです。復活の望みの中で生きる生き方とは、現実逃避のようなものではありません。むしろ、苦難と犠牲の意味を知り、自ら進んで担って行く生き方なのです。
II.罪から離れて(32-34)
復活の望みがないならば、人は、人生に究極的な意味を見出すことが出来ず、結局は、その場限りの快楽に身を委ねるような生き方に陥ります。私たちの命の終わりが、全ての終わりなら、人生は虚しいものとなります。この虚しさを忘れるために、人は快楽に身を委ねるようになります。復活への望みがなければ、この虚しさと快楽への誘惑を退けることはできません。しかし私たちには永遠の神様の御国が待っているのです。復活の望みによって生きるとは、この神様の御国を待ち望むことです。復活の望みに生きる者は、しばしの間の仮庵である此の世に未練を持つことなく、むしろ目を覚まして、罪から離れ、神様の御心に生きるようになります。
祈り:主よ!私が、此の世に蔓延する虚無主義や快楽主義から解き放たれて、霊の目をさまして、あなたの御心に生きることができますように助け導いてください。
一言:死の連続に生きる
「兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。」(31)
I.毎日が死の連続(29-31)
使徒パウロは復活の望みに生きていたために、多くの苦難や危険の中にあっても、福音を宣べ伝えることを決してあきらめませんでした。彼の人生は、「毎日が死の連続」という言葉で表されています。彼はキリストに従うために、日々自分を捨てました。自我の殻に閉じこもり、変化を避けて生きて行きたいと願う肉の望みと、世の栄光を求める欲望を捨て去ったのです。彼は、この世で認められ、富を得ることもできたにもかかわらず、その誘惑を退けました。それは、彼には復活の望みがあったからでした。そして、むしろ、主と福音の御業のために、日々ますます、その身を捧げたのです。復活の望みの中で生きる生き方とは、現実逃避のようなものではありません。むしろ、苦難と犠牲の意味を知り、自ら進んで担って行く生き方なのです。
II.罪から離れて(32-34)
復活の望みがないならば、人は、人生に究極的な意味を見出すことが出来ず、結局は、その場限りの快楽に身を委ねるような生き方に陥ります。私たちの命の終わりが、全ての終わりなら、人生は虚しいものとなります。この虚しさを忘れるために、人は快楽に身を委ねるようになります。復活への望みがなければ、この虚しさと快楽への誘惑を退けることはできません。しかし私たちには永遠の神様の御国が待っているのです。復活の望みによって生きるとは、この神様の御国を待ち望むことです。復活の望みに生きる者は、しばしの間の仮庵である此の世に未練を持つことなく、むしろ目を覚まして、罪から離れ、神様の御心に生きるようになります。
祈り:主よ!私が、此の世に蔓延する虚無主義や快楽主義から解き放たれて、霊の目をさまして、あなたの御心に生きることができますように助け導いてください。
一言:死の連続に生きる






