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因果応報に支配されていたエリファズ
ヨブ記 4:1-21

 「さあ思い出せ。だれか罪がないのに滅びた者があるか。」(7)

I.だれか罪がないのに滅びた者があるか(1-11)
 エリファズは、人の全ての不幸の原因を罪に求め、不幸から逃れるためには、ただ神様の御前に進み出て悔い改めるべきであると強く主張しました。彼はかつてのヨブの正しい行ないを認めましたが(3-5)、今ヨブに災いが降り注いでいるのは、かつての正しさが失われたためだと言いました。「さあ思い出せ。だれか罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。」(7)。人が受ける不幸は罪の故であるという主張は広く認められるものです。聖書も、人間の罪と堕落によって、世にのろいと疾病と不幸が始まったと教えています。ですが全ての不幸の原因を罪に求めることはできません。神様の御前で正しく生きていたとしても、苦難を受ける場合があるのです。それは、私たちの理解を越えた神様の御旨です。しかし、このような神様を、人間の側の都合で機械的に理解しようとするならば、因果応報の論理に陥ります。そのような律法的思考は、人々を絶望へと追いやるのです。

II.人は神の前に正しくありえようか(12-21)
 エリファズは、「人は神様の前に正しいことがありえようか。」という声を聞いたと言います。いくら正しい人であっても、神様より正しくあることはできないことは真実です。しかし私たちの神様は、義なる神であるとともに愛なる神なのです。このことを信じましょう。苦難は、義なる神様による罪の報いであるという機械的な見方をすべきではありません。愛なる神が、人の理解を越えた御心をなされるために、苦難を許されていることがあるのです。

祈り:主よ!因果応報的な考えに陥って、他人の苦痛を、その人自身の過失の故とみなして裁いていた私こそ罪人です。この罪を悔い改め、小さな私の理解を遥かに越えた貴方を知ることが出来ますようにお導きください。

一言:苦痛は必ずしも罪の故ではない

カテゴリ:旧約聖書::ヨブ記

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