2006年08月19日 (土)
イザヤ書 56:1-12
「公正を守り、正義を行なえ。」(1)
I.公正と正義を行なえ(1-8)
イスラエルは、神様に選ばれた民であるという選民意識に溺れて驕り高ぶり、自分の道へとさ迷い出て行きました。彼らは、ただ形ばかりで神様に仕え、言葉だけで神様を敬いました。そして、公正と義に背を向けました(1)。安息日を汚し、悪を行なうことをためらわず、自分を喜ばせることだけを行なっていました(2)。
神様はこのような人々にご自分の救いと義を現されません。神様が祝福してくださる者とは、神様を畏れ敬う心で安息日を守り、その手で悪を行なわず、神様が喜ぶ事を選び、神様の契約を堅く保ち、信仰によって生きる者なのです(2)。こうした人々は、たとえこの世では軽んじられる孤児であったとしても、永遠に神様の子どもとなるのです。たとえ異邦人であったとしても、神様は、彼らを聖なる山に導かれ、その祈りを聞いてくださいます。神様は人のうわべや身分ではなく、神様に対する信仰と愛を御覧になっておられ、そのことの故に祝福してくださるのです。
II.おしの犬である牧者に対する警告(9-12)
当時、神様のしもべとして召された者はその時代の見張り人として召されたのです。しかし、彼らは盲人のようになり、無知で、おしの犬のようになってしまいました。彼らは横になって眠りを貪り、この世の欲に駆られて、自分の利益ばかりを追い求めました。彼らは世の快楽に生きていたのです。彼らには牧者の自覚がありませんでした。このような彼らの故に、その民は裁かれるものとなってしまったのです。
祈り:主よ!あなたとつながっていることができますように。あなたへの愛を忘れ去ることがありませんように。あなたの御言葉に聞き従い、公正と義を行なう者となることができますように。
一言:番人は時代を見張るべき
「公正を守り、正義を行なえ。」(1)
I.公正と正義を行なえ(1-8)
イスラエルは、神様に選ばれた民であるという選民意識に溺れて驕り高ぶり、自分の道へとさ迷い出て行きました。彼らは、ただ形ばかりで神様に仕え、言葉だけで神様を敬いました。そして、公正と義に背を向けました(1)。安息日を汚し、悪を行なうことをためらわず、自分を喜ばせることだけを行なっていました(2)。
神様はこのような人々にご自分の救いと義を現されません。神様が祝福してくださる者とは、神様を畏れ敬う心で安息日を守り、その手で悪を行なわず、神様が喜ぶ事を選び、神様の契約を堅く保ち、信仰によって生きる者なのです(2)。こうした人々は、たとえこの世では軽んじられる孤児であったとしても、永遠に神様の子どもとなるのです。たとえ異邦人であったとしても、神様は、彼らを聖なる山に導かれ、その祈りを聞いてくださいます。神様は人のうわべや身分ではなく、神様に対する信仰と愛を御覧になっておられ、そのことの故に祝福してくださるのです。
II.おしの犬である牧者に対する警告(9-12)
当時、神様のしもべとして召された者はその時代の見張り人として召されたのです。しかし、彼らは盲人のようになり、無知で、おしの犬のようになってしまいました。彼らは横になって眠りを貪り、この世の欲に駆られて、自分の利益ばかりを追い求めました。彼らは世の快楽に生きていたのです。彼らには牧者の自覚がありませんでした。このような彼らの故に、その民は裁かれるものとなってしまったのです。
祈り:主よ!あなたとつながっていることができますように。あなたへの愛を忘れ去ることがありませんように。あなたの御言葉に聞き従い、公正と義を行なう者となることができますように。
一言:番人は時代を見張るべき
2006年08月18日 (金)
イザヤ書 55:1-13
「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。」(1)
I.わたしのところに出て来い(1-5)
神様から離れ去ったイスラエルは、喉の渇きに苦しむ者のようでした。彼らのたましいは満たされることなく、苦しむばかりでした。人々はたましいの渇きを解決しようとして様々なことをします。旅行をし、遊びにおぼれ、飲み食いをして満足を得ようとし、男女間の愛を通して、たましいを満たそうとします。しかし、最後には、渇きしかのこらないことに気がつくのです。
神様は嘆いて言われます。「腹を満たさない物のために労するのか。」 神様は私たちを招いておられます。「わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。」と(2)。主の御前に出て行き、悔い改めて、御言葉を受け入れるなら、主は私たちの罪を赦し、御霊を与えてくださいます。ダビデと同じように、私たちと永遠の愛の契約を結んでくださるのです(Ⅱサム7:14,15)。その時はじめて、私たちのたましいはいのちを得て、本当の喜びに満たされるのです。
II.「主を求めよ。お会いできる間に。」(6-13)
神様は言われます。「主を求めよ。お会いできる間に。」(6) 私たちは、神様に、いつまでもお会いできるわけではありません。チャンスは限られているのです。ですから、神様が呼んでくださった、その時に、全ての過ちから抜け出て、神様に立ち帰るべきなのです。その時、神様は、私たちを憐れまれ、全ての罪を赦してくださるのです。神様は、高いところから道を教えてくださいます。御言葉によって導いてくださいます。主に立ち帰る時、御言葉が、私たちを導き、私たちは平安と恵みの中を歩むことができるのです。
祈り:主よ!あなたの御言葉から離れて生きていました。しかし、今、悔い改め、あなたの御前に出て行きます。渇いたたましいを満たしてください。
一言:渇いている者はみな出て来い
「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。」(1)
I.わたしのところに出て来い(1-5)
神様から離れ去ったイスラエルは、喉の渇きに苦しむ者のようでした。彼らのたましいは満たされることなく、苦しむばかりでした。人々はたましいの渇きを解決しようとして様々なことをします。旅行をし、遊びにおぼれ、飲み食いをして満足を得ようとし、男女間の愛を通して、たましいを満たそうとします。しかし、最後には、渇きしかのこらないことに気がつくのです。
神様は嘆いて言われます。「腹を満たさない物のために労するのか。」 神様は私たちを招いておられます。「わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。」と(2)。主の御前に出て行き、悔い改めて、御言葉を受け入れるなら、主は私たちの罪を赦し、御霊を与えてくださいます。ダビデと同じように、私たちと永遠の愛の契約を結んでくださるのです(Ⅱサム7:14,15)。その時はじめて、私たちのたましいはいのちを得て、本当の喜びに満たされるのです。
II.「主を求めよ。お会いできる間に。」(6-13)
神様は言われます。「主を求めよ。お会いできる間に。」(6) 私たちは、神様に、いつまでもお会いできるわけではありません。チャンスは限られているのです。ですから、神様が呼んでくださった、その時に、全ての過ちから抜け出て、神様に立ち帰るべきなのです。その時、神様は、私たちを憐れまれ、全ての罪を赦してくださるのです。神様は、高いところから道を教えてくださいます。御言葉によって導いてくださいます。主に立ち帰る時、御言葉が、私たちを導き、私たちは平安と恵みの中を歩むことができるのです。
祈り:主よ!あなたの御言葉から離れて生きていました。しかし、今、悔い改め、あなたの御前に出て行きます。渇いたたましいを満たしてください。
一言:渇いている者はみな出て来い
2006年08月17日 (木)
イザヤ書 54:1-17
「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、」(2)
I.あなたの天幕の場所を広げよ(1-3)
バビロンに捕虜として連れて行かれ、今、そこから戻って来たイスラエルの現状は、身ごもることができず、産むことができない女のようでした。しかし神様は、彼らに言われます。「喜びの歌声をあげて叫べ。」(1) そして、さらに言われます。「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。」(2)彼らは荒れ果てた地で生活し、他人を顧みる心の余裕もありませんでした。しかし神様は、彼らが、自らの子孫が国々を所有するようになる日を仰ぎ見、「天幕の場所を広げ、住まいの幕を惜しみなく張り伸ばすように」と言われたのです。たとえ、目の前の現実が厳しくても、天幕の場所を広げ、人に仕えるものとなるべきなのです。
神様は大きな御旨を持っておられます。私たちを通して、全ての国の人々を救おうとされているのです。私たちは此の世で生きる中で、疲れ果てて、自分の足下を見るだけで精一杯になってしまいがちです。ですが、神様は大きな御旨を持っておられます。足下から、天へと目を移しましょう。天幕の場所を広げ、世界に救いの知らせを告げ知らせて行くべきなのです。
II.あなたの夫はあなたを造った者(4-17)
イスラエルは、若い時に夫に捨てられ、はずかしめを受けた妻のようでした。しかし全地の神様が彼らの夫となられ、すべてのはずかしめと悲しみを洗い流され、憐れんでくださるのです。ですから、彼らは目の前の現実の厳しさ故に、神様の愛を疑い、暗くなってしまうことなく、神様の望みをしっかりとつかんで生きて行くべきなのです。
祈り:主よ!此の世で生きる中、私は自分の足下しか見えなくなっていました。今、悔い改めます。全地を救おうとされるあなたの御旨を仰ぎ見、その日のために祈ります。
一言:あなたの天幕の場所を広げよ
「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、」(2)
I.あなたの天幕の場所を広げよ(1-3)
バビロンに捕虜として連れて行かれ、今、そこから戻って来たイスラエルの現状は、身ごもることができず、産むことができない女のようでした。しかし神様は、彼らに言われます。「喜びの歌声をあげて叫べ。」(1) そして、さらに言われます。「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。」(2)彼らは荒れ果てた地で生活し、他人を顧みる心の余裕もありませんでした。しかし神様は、彼らが、自らの子孫が国々を所有するようになる日を仰ぎ見、「天幕の場所を広げ、住まいの幕を惜しみなく張り伸ばすように」と言われたのです。たとえ、目の前の現実が厳しくても、天幕の場所を広げ、人に仕えるものとなるべきなのです。
神様は大きな御旨を持っておられます。私たちを通して、全ての国の人々を救おうとされているのです。私たちは此の世で生きる中で、疲れ果てて、自分の足下を見るだけで精一杯になってしまいがちです。ですが、神様は大きな御旨を持っておられます。足下から、天へと目を移しましょう。天幕の場所を広げ、世界に救いの知らせを告げ知らせて行くべきなのです。
II.あなたの夫はあなたを造った者(4-17)
イスラエルは、若い時に夫に捨てられ、はずかしめを受けた妻のようでした。しかし全地の神様が彼らの夫となられ、すべてのはずかしめと悲しみを洗い流され、憐れんでくださるのです。ですから、彼らは目の前の現実の厳しさ故に、神様の愛を疑い、暗くなってしまうことなく、神様の望みをしっかりとつかんで生きて行くべきなのです。
祈り:主よ!此の世で生きる中、私は自分の足下しか見えなくなっていました。今、悔い改めます。全地を救おうとされるあなたの御旨を仰ぎ見、その日のために祈ります。
一言:あなたの天幕の場所を広げよ
2006年08月16日 (水)
イザヤ書 53:1-12
「私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(6)
I.さげすまれ、のけ者にされたイエス様(1-3)
イエス様は、本来は創造主である神様として、全ての被造物から栄光と賛美を受けられる方です。しかしこの地上に一人のみどりごとして来られ、生涯罪人たちに御仕えになられました。もはや、砂漠の地から出る根のように、見とれるような姿もなく、見ばえもありませんでした。
人々はこのようなイエス様をさげすみ、嫌い、のけ者にしました。イエス様は、人々の深い悲しみと病と痛みとを負われたのです。この御方は、苦しむ者、捨てられた者たちの痛みを知っておられます。
II.私たちの罪と咎を負われたイエス様(4-12)
イエス様は人々からさげすまれ、のけ者にされ、ついには十字架につけられ、恐ろしい無残な方法で殺されました。なぜ、イエス様がこのような苦難をお受けにならなければならなかったのでしょう。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(5,6)。私たちは咎と罪で傷つき、さまよい、悲しむべき存在でした。いのちを失い(ロマ6:23a)、永遠のさばきを受けるべき存在でした。しかし、イエス様は、ご自分のいのちを犠牲にして、私たちの咎と罪を担ってくださいました。それによって、私たちは罪の赦しを受け、永遠のいのちへと解放されたのです。神様と和解し、平和を受け、すべての悲しみと傷の癒しに与るものとされたのです(5)。
祈り:主よ!あなたは、私の咎と罪を負ってくださいました。それは、私に、新しいいのちをもたらすためでした。私は、今、あなたの新しい命に生きています。ですから、私自身も隣人の咎と罪を負う者となります。
一言:その犠牲は私のため
「私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(6)
I.さげすまれ、のけ者にされたイエス様(1-3)
イエス様は、本来は創造主である神様として、全ての被造物から栄光と賛美を受けられる方です。しかしこの地上に一人のみどりごとして来られ、生涯罪人たちに御仕えになられました。もはや、砂漠の地から出る根のように、見とれるような姿もなく、見ばえもありませんでした。
人々はこのようなイエス様をさげすみ、嫌い、のけ者にしました。イエス様は、人々の深い悲しみと病と痛みとを負われたのです。この御方は、苦しむ者、捨てられた者たちの痛みを知っておられます。
II.私たちの罪と咎を負われたイエス様(4-12)
イエス様は人々からさげすまれ、のけ者にされ、ついには十字架につけられ、恐ろしい無残な方法で殺されました。なぜ、イエス様がこのような苦難をお受けにならなければならなかったのでしょう。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(5,6)。私たちは咎と罪で傷つき、さまよい、悲しむべき存在でした。いのちを失い(ロマ6:23a)、永遠のさばきを受けるべき存在でした。しかし、イエス様は、ご自分のいのちを犠牲にして、私たちの咎と罪を担ってくださいました。それによって、私たちは罪の赦しを受け、永遠のいのちへと解放されたのです。神様と和解し、平和を受け、すべての悲しみと傷の癒しに与るものとされたのです(5)。
祈り:主よ!あなたは、私の咎と罪を負ってくださいました。それは、私に、新しいいのちをもたらすためでした。私は、今、あなたの新しい命に生きています。ですから、私自身も隣人の咎と罪を負う者となります。
一言:その犠牲は私のため
2006年08月15日 (火)
イザヤ書 52:1-15
「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。」(7)
I.金を払わずに買い戻される(1-6)
今シオンは汚れた衣を着て、ちりの上に横たわる必要がありません。首からかせをふりほどくべきです(1,2)。主が、過去エジプトから救われたように、彼らを買い戻そうとされています。「買い戻す」とは代価を払って奴隷を買い取り、解放することです。ですが、今、神様は「金を払わずに買い戻される」と言われます(3)。なんという大きな恵みでしょう。神様は私たちを罪の中から買い戻す時、私たちに代価を御求めにはなられません。キリストは、私の代わりに、十字架で、御自身の命を罪の対価として払ってくださいました(ガラ3:13)。ですから、今や、私たちは、この事実を受け入れるならば、何の代価もなく、罪の鎖から抜け出すことができるのです。
II.美しい足(7-15)
何の代価も支払わずに解放されるという良い知らせも、聞かなければ信じることができません。信じなければ、救いに与ることはできません。ですから伝える者が求められています。平和を告げ、幸いな良い知らせをもたらし、救いを告げ知らせるために山を越える者が求められています。そうした者の足は、神様の目に、この上なく美しいものとしてうつっているのです(7)。
祈り:主よ!あなたが、代価なしに、私を買い戻してくださったこと、、これ以上の幸いはありません。私は、この喜びの知らせを自分だけのものとすることなく、世に告げ知らせます。
一言:救いの知らせを世界に
「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。」(7)
I.金を払わずに買い戻される(1-6)
今シオンは汚れた衣を着て、ちりの上に横たわる必要がありません。首からかせをふりほどくべきです(1,2)。主が、過去エジプトから救われたように、彼らを買い戻そうとされています。「買い戻す」とは代価を払って奴隷を買い取り、解放することです。ですが、今、神様は「金を払わずに買い戻される」と言われます(3)。なんという大きな恵みでしょう。神様は私たちを罪の中から買い戻す時、私たちに代価を御求めにはなられません。キリストは、私の代わりに、十字架で、御自身の命を罪の対価として払ってくださいました(ガラ3:13)。ですから、今や、私たちは、この事実を受け入れるならば、何の代価もなく、罪の鎖から抜け出すことができるのです。
II.美しい足(7-15)
何の代価も支払わずに解放されるという良い知らせも、聞かなければ信じることができません。信じなければ、救いに与ることはできません。ですから伝える者が求められています。平和を告げ、幸いな良い知らせをもたらし、救いを告げ知らせるために山を越える者が求められています。そうした者の足は、神様の目に、この上なく美しいものとしてうつっているのです(7)。
祈り:主よ!あなたが、代価なしに、私を買い戻してくださったこと、、これ以上の幸いはありません。私は、この喜びの知らせを自分だけのものとすることなく、世に告げ知らせます。
一言:救いの知らせを世界に






