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神の小羊
ヨハネの福音書 1:19-34

 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(29)

 バプテスマのヨハネはまことの光であるイエス様を証しする者として来ました。人々は、「もしかすると彼がキリストではないのか」と思って尋ねました。「あなたはどなたですか。」その時、バプテスマのヨハネは自分がキリストではないことをはっきりと明かしました。彼は預言者イザヤが言ったように、「主の道をまっすぐにせよ。」と荒野で叫んでいる者の声に過ぎませんでした。声は意思を伝達して消え行く存在です。人気と名誉を捨てることは容易なことではありません。しかし彼は自分の名前と栄光を現すことを徹底的に放棄しました。イエス様が誰であるのか、よく知っていたからです。イエス様について、よく知っているなら、私たちは、ただ謙り、イエス様を証しすることができます。
 ヨハネはイエス様をどんな方として証ししましたか。彼はイエス様を見て叫びました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」世の罪はイエス様を神様として受け入れないことです。人には多くの問題がありますが、最も根本的な問題はまさにそれです。人々が苦しみさまよくのはイエス様を受け入れないからです。また人々はこの問題を解決するためにいろいろと苦労をします。ところがイエス様が世の罪を取り除く神の小羊として来られました。購いのそなえものとなり、十字架につけられて死なれました。それでイエス様は世の罪に対する代価をすべて支払いました。自分の罪ととがだけを見ると、私たちは苦しむだけです。しかし目を上げて神の小羊であるイエス様を見る時、いのちを得ます。

祈り:主よ!世の罪を取り除かれるあなたを通して、私が、永遠のいのちに与ることができますように。私を導いてください。

一言:見よ、神の小羊!
カテゴリ:新約聖書::ヨハネの福音書

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この方にいのちがあった
ヨハネの福音書 1:1-18

 「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」(4)

 万物の初めに御言葉がありました。この御言葉は神様です。この御言葉は、人となって私たちの間に住まわれたイエス様を指します(14)。それでイエス様は単なる偉大な人間ではありません。イエス様は初めにおられた神様です。このイエス様によって万物は造られました。イエス様は万物のみなもとであり、全てのいのちのみなもとです。それでこのイエス様の中にいのちがあります。このいのちはただのいのちではありません。このいのちは霊的ないのちです。また生命力が満ち溢れる本当のいのちであり、永遠の命です。誰でもこのイエス様を信じる時、いのちを得ます。凍りついた大地を割って芽生える新芽のような、生命力が満ち溢れる新しい人生を生きることができます。自分の条件と環境がどうであれ、喜びと満足のある人生を生きることができます。何より永遠のいのちを得ます。またこのいのちは人々の光です。イエス様の光が臨む時、私たちは人生のさまざまな苦しみから救いを得ます。光の人生を生き、神様の子どもになる特権を得ます。
 イエス様は神様ですが、いのちの光をくださるために、人として私たちの中に来られました。罪によっていのちを失い、やみの中で生活している私たちに訪ねて来られ、最も低くなって訪ねて来られました。そしてイエス様は生涯蔑視と嘲笑を受けられました。徹底的にご自分を差し出されました。後には、十字架でご自分のいのちまでも差し出されることで、私たちにいのちと光をくださいました。このイエス様の中に恵みとまことが満ちています。

祈り:主よ!いのちと光として来てくださり、ありがとうございます。私は心を開いて、主イエス・キリストを受け入れます。私のいのちとなってください。

一言:いのちの光イエス様
カテゴリ:新約聖書::ヨハネの福音書

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最後の勝利
Iコリント 15:50-58

 「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(57)

I.死よ、おまえの勝利はどこにあるのか(50-17)
 死は全人類の上に君臨して来ました。人々は死を恐れ、どうすることもできずに、卑しく罪深い生活をしながらも、死なないように地団駄を踏みましたが、終には死んで行きました。しかしその日、キリストが再び来られる日には、死の力は滅ぼされます。罪と律法も、完全にその力を失うのです。
 今、パウロは甦りへの希望に満たされて、勝利を叫びます。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」(55)。この確信を持つ時、人は死の恐れから自由になるのです。

II.主のわざに励みなさい(58)
 この世は、私たち聖徒たちを、さまざまなかたちで惑わしています。このような誘惑の前で、甦りを信じる信仰は動揺し、いつしか虚しいものを追っていることがあります。将来への恐れのために、自分のことばかりを考え、主の御業に無関心になることもあるでしょう。しかしこの世はしばらくの間だけで、この世の全てのものは結局は虚無に帰すのです。永遠の天の御国に持って行けるものは、主への信仰と愛だけです。つまりは、この世で虚しくないのは、信仰による働きだけなのです。主の甦りを信じて揺れ動かされることなく、いつも主のわざに励もうではありませんか。

祈り:主よ!あなたは、死の力を打ち砕き、最後の勝利をもたらす御方です。このことを覚えて感謝します。私を、ただただ、あなたの御業に励むものとして御用いください。

一言:勝利をもたらされる御方
カテゴリ:新約聖書::テサロニケ人への手紙第一

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甦りの栄光
Iコリント 15:35-49

 「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」(44)

 昔も今も、人々は甦りの体を、今と同じ体であるかのように考える傾向にあります。果たして私たちは、どのような姿でよみがえるのでしょうか。パウロは種のたとえをもって説明します。地に蒔かれた種は死んで甦るのです。ある人は、「甦るのなら、何のために死ぬのか。」と言うかも知れません。しかし甦るために死を通らなければならないのです。死は終わりではなく、甦りに先立つものです。
 おのおのの種はさまざまな形の花を咲かせます。種はごく小さなものですが、その種から、種とは比べられない美しい花が咲くのです。種の姿と、そこから咲く花の姿は明らかに違います。今の私たちの体は種粒のようなものです。しかしこの朽ちる体が蒔かれると、朽ちないものに甦るのです。卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされます。甦りの体は、「五欲七情」と「生老病死」に苦しめられる卑しい体ではありません。御霊に属する体です。死ぬ体ではなく、もはや死ぬことのない体です。
 私たちはアダムの子孫として、土から出て、土に属する体を着るようになりました。しかし、やがて来る日、私たちはイエス様によって天に属する者の体を着るのです。イエス・キリストと共に御霊に属する体を着て、永遠に主と共に生きるのです。

祈り:主よ!卑しく弱いこの体が、その日には、栄光の体を着るようになるとは・・・。私はこの栄光を慕い求めています。あなたの甦りの望みの中に生きて行きます。

一言:天に属する者の体
カテゴリ:新約聖書::コリント人への手紙第一

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毎日が死の連続です
Iコリント 15:29-34

 「兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。」(30)

I.毎日が死の連続です(29-31)
 使徒パウロは今、甦りを信じる人々に、行くべき道を指し示しています。彼自身の生き方を一つのたとえとして勧めているのです。パウロは甦りの望みの故に、多くの危険の中にあっても福音を伝えることができました。彼の生きる道は、一言で言うならば、毎日が死の連続だったのです(31)。彼は、毎日死を味わうほどの苦難を受けていました。彼はキリストに従うために、日々自分を捨てました。彼は、安逸に生きる道も、世の栄光を求める道も捨てました。彼はこの世でいくらでも認められることができる人物だったはずです。しかし彼は甦りの望みに生き、この世の栄光を犠牲にしました。甦りの望みに生きることは、この世を避ける隠遁生活ではありません。この世に在って、苦難や犠牲をも喜びとする生き方です。

II.目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめさない(32-34)
 甦りに望みを置かない人々の生活はどうだったのでしょう。彼らは「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」と言いました(32)。退廃的で、むなしい生き方に身を委ねました。この世で全てが終るのであれば、できる限り楽しんで生きれば良いでしょう。しかしこの世の人生はむしろほんのつかの間です。復活の望みの中で生きる人々は神様の御国での永遠のために、瞬く間に過ぎ去るこの世で目をさまし、主を仰ぎ見て生きて行くのです。

祈り:主よ!あなたの甦りの望みの中で生きています。私が、その日その日の快楽に耽る世の人々に流されず、目を覚まし、日々、あなたを仰ぎ見て歩むことができますように、御導きください。

一言:死の連続を生きる
カテゴリ:新約聖書::コリント人への手紙第一

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