2007年11月22日 (木)
Iヨハネ 2:18-29
「だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、」(23)
反キリストはキリストを信じる信仰に敵対する勢力です。使徒ヨハネの当時、多くの反キリストがいました。彼らは最初教会の中にいました。しかし教会の中で間違ったキリスト論を主張し、多くの問題を引き起こしました。そうして終には共同体に分裂を引き起こしました。彼らはイエス様がキリストであることを否認しました。イエス様を単なる一人の人間と見たのです。イエス様が御子であることを否認すればどうなるでしょう。御子を否認する者は御父を持ちません。彼らには救い主も、御子を救い主としてお遣わしになった御父の愛もありません。彼らは真っ暗な絶望とやみの中で、偽りによって人を惑わすサタンの子です。
私たちはどのようにして反キリストを見分けることができるのでしょうか。第一に、私たちの中にいてくださる聖霊に求めましょう(20,27)。聖霊は真理の御霊です。聖霊は私たちにイエス・キリストを証しします。「真理を教えてあげるから来なさい。」と誘惑する声に引き寄せられて訪ねて行く必要はありません。私たちの中に、すでに聖なる方からの注ぎの油があるからです。聖霊を慕い求め、その御声に耳を傾ける時、誘惑から抜け出し、真理に導かれます。第二に、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせていましょう(24)。イエス様をキリストとして受け入れた感激の出会い、その最初の信仰を守り抜くべきです。神様の愛を覚え、喜びのうちにあった最初の愛を守り続けましょう。最初の福音を失えば、反キリストの教えに陥る罠にはまります。私たちは主が再臨される時まで、イエス様をキリストとして信じる信仰の中に、しっかりと根ざしているべきなのです。
祈り:主よ!福音から人々を遠ざける此の世の誘惑に打ち勝って、最後まで、最初に出会った福音のうちにとどまることができますように、私を御守りください。
一言:イエス様は神様の御子
「だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、」(23)
反キリストはキリストを信じる信仰に敵対する勢力です。使徒ヨハネの当時、多くの反キリストがいました。彼らは最初教会の中にいました。しかし教会の中で間違ったキリスト論を主張し、多くの問題を引き起こしました。そうして終には共同体に分裂を引き起こしました。彼らはイエス様がキリストであることを否認しました。イエス様を単なる一人の人間と見たのです。イエス様が御子であることを否認すればどうなるでしょう。御子を否認する者は御父を持ちません。彼らには救い主も、御子を救い主としてお遣わしになった御父の愛もありません。彼らは真っ暗な絶望とやみの中で、偽りによって人を惑わすサタンの子です。
私たちはどのようにして反キリストを見分けることができるのでしょうか。第一に、私たちの中にいてくださる聖霊に求めましょう(20,27)。聖霊は真理の御霊です。聖霊は私たちにイエス・キリストを証しします。「真理を教えてあげるから来なさい。」と誘惑する声に引き寄せられて訪ねて行く必要はありません。私たちの中に、すでに聖なる方からの注ぎの油があるからです。聖霊を慕い求め、その御声に耳を傾ける時、誘惑から抜け出し、真理に導かれます。第二に、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせていましょう(24)。イエス様をキリストとして受け入れた感激の出会い、その最初の信仰を守り抜くべきです。神様の愛を覚え、喜びのうちにあった最初の愛を守り続けましょう。最初の福音を失えば、反キリストの教えに陥る罠にはまります。私たちは主が再臨される時まで、イエス様をキリストとして信じる信仰の中に、しっかりと根ざしているべきなのです。
祈り:主よ!福音から人々を遠ざける此の世の誘惑に打ち勝って、最後まで、最初に出会った福音のうちにとどまることができますように、私を御守りください。
一言:イエス様は神様の御子
2007年11月21日 (水)
Iヨハネ 2:1-17
「私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」(1)
信者は罪を避けて、神様に仕えるようにと召されました。ですが私たちは、罪に打ち勝つ時もあれば、負ける時もあります。神様を知っているにもかかわらず罪を犯してしまった時、私たちは悲しみと絶望に陥ります。しかし、望みを覚えているべきです。私たちの主イエス・キリストが、私たちを弁護してくださるのです。罪のないイエス様は、私の罪のためになだめの供え物になられました。イエス様は、罪を犯して弁解の余地のない私を、弁護してくださいます。「父よ、私が十字架でその全ての罪を担いました。ですから赦してください。」と…。罪を犯して絶望的な時、頼れる方はイエス様しかいません。イエス様を信じれば、申し開きのできない罪人も赦され、神様と和解する新しい人生を生きることができます。罪に倒れた時、ためらわずにイエス様に走って行かなければなりません。
イエス様の恵みを体験して、知っている私たちはその戒めを守ります。その戒めは「兄弟を愛しなさい。」です。光の中にいると言いながら、兄弟を憎むなら、その人はまだやみの中にいます。イエス様を通して、神様の愛を経験した人が兄弟を愛することができます。兄弟を愛する時、光の中にとどまる自由を得ることができます。私たちが兄弟を愛さない時、何を愛するようになるのでしょうか。この世と、世にあるものを愛するようになります。それは肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢です。みな滅び去り、消え行くむなしいものです。ただ神様の御旨を行なう者が永遠に生きるようになります。それは世を愛さずに、神様を愛し、兄弟を愛する生活です。
祈り:主よ!罪に倒れた時、絶望せずに、弁護してくださる方イエス様に走って行くように信仰をください。
一言:私の弁護者イエス様
「私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」(1)
信者は罪を避けて、神様に仕えるようにと召されました。ですが私たちは、罪に打ち勝つ時もあれば、負ける時もあります。神様を知っているにもかかわらず罪を犯してしまった時、私たちは悲しみと絶望に陥ります。しかし、望みを覚えているべきです。私たちの主イエス・キリストが、私たちを弁護してくださるのです。罪のないイエス様は、私の罪のためになだめの供え物になられました。イエス様は、罪を犯して弁解の余地のない私を、弁護してくださいます。「父よ、私が十字架でその全ての罪を担いました。ですから赦してください。」と…。罪を犯して絶望的な時、頼れる方はイエス様しかいません。イエス様を信じれば、申し開きのできない罪人も赦され、神様と和解する新しい人生を生きることができます。罪に倒れた時、ためらわずにイエス様に走って行かなければなりません。
イエス様の恵みを体験して、知っている私たちはその戒めを守ります。その戒めは「兄弟を愛しなさい。」です。光の中にいると言いながら、兄弟を憎むなら、その人はまだやみの中にいます。イエス様を通して、神様の愛を経験した人が兄弟を愛することができます。兄弟を愛する時、光の中にとどまる自由を得ることができます。私たちが兄弟を愛さない時、何を愛するようになるのでしょうか。この世と、世にあるものを愛するようになります。それは肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢です。みな滅び去り、消え行くむなしいものです。ただ神様の御旨を行なう者が永遠に生きるようになります。それは世を愛さずに、神様を愛し、兄弟を愛する生活です。
祈り:主よ!罪に倒れた時、絶望せずに、弁護してくださる方イエス様に走って行くように信仰をください。
一言:私の弁護者イエス様
2007年11月20日 (火)
Iヨハネ 1:1-10
「あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。」(3)
初めからあったいのちの御言葉がこの地に来られました。著者である使徒ヨハネはその御言葉を聞いて、見て、さわりました。その御言葉は人間の体でこの世に来られた神様の御子イエス・キリストです。著者がイエス様を伝える理由は何でしょうか。「あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。」。罪は人々に交わりの断絶をもたらしました。人が孤独と悲しみの中にいるのは神様と人との間での交わりが断たれたからです。イエス様が人の体で来られたのは、断たれた交わりを回復させるためです。イエス様に出会った時、神様との交わりが回復します。神様と、イエス様と共にいる聖徒たちの交わりが甦るのです。この交わりの中にはこの世では味わうことのできない満たされた喜びがあります。
イエス様は私たちに「神様は光である」というメッセージを伝えました。神様と交わる人生は光の中に歩んでいくことです。光の中に生きるとは、罪のない生活というものではありません。罪を告白し、悔い改めながら生きて行くことです。人は弱く、あるいは悪いので罪を犯します。私たちが「罪はない」と言えば、それは偽りであり、暗闇の中に自分を隠すことです。罪人であることを認め、犯した罪を神様の御前で告白すれば、光の中に生きるようになります。神様は私たちが罪を告白した時、私たちの罪を赦してくださいます。その御子イエス様の血で私たちを全ての不義からきよめてくださいます。悔い改め、赦され、イエス様の血できよめられれば、神様と交わる幸福で満ちた人生を生きるようになります。
祈り:主よ!私が、御言葉として来られたイエス様を迎え入れ、光であられる、あなた御自身との交わりの喜びの中で生きることができますように。私を御導きください。
一言:神様と共に、イエス様と共に
「あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。」(3)
初めからあったいのちの御言葉がこの地に来られました。著者である使徒ヨハネはその御言葉を聞いて、見て、さわりました。その御言葉は人間の体でこの世に来られた神様の御子イエス・キリストです。著者がイエス様を伝える理由は何でしょうか。「あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。」。罪は人々に交わりの断絶をもたらしました。人が孤独と悲しみの中にいるのは神様と人との間での交わりが断たれたからです。イエス様が人の体で来られたのは、断たれた交わりを回復させるためです。イエス様に出会った時、神様との交わりが回復します。神様と、イエス様と共にいる聖徒たちの交わりが甦るのです。この交わりの中にはこの世では味わうことのできない満たされた喜びがあります。
イエス様は私たちに「神様は光である」というメッセージを伝えました。神様と交わる人生は光の中に歩んでいくことです。光の中に生きるとは、罪のない生活というものではありません。罪を告白し、悔い改めながら生きて行くことです。人は弱く、あるいは悪いので罪を犯します。私たちが「罪はない」と言えば、それは偽りであり、暗闇の中に自分を隠すことです。罪人であることを認め、犯した罪を神様の御前で告白すれば、光の中に生きるようになります。神様は私たちが罪を告白した時、私たちの罪を赦してくださいます。その御子イエス様の血で私たちを全ての不義からきよめてくださいます。悔い改め、赦され、イエス様の血できよめられれば、神様と交わる幸福で満ちた人生を生きるようになります。
祈り:主よ!私が、御言葉として来られたイエス様を迎え入れ、光であられる、あなた御自身との交わりの喜びの中で生きることができますように。私を御導きください。
一言:神様と共に、イエス様と共に






